数年前ですが、友達のイラン人に誘われ、イランの首都テヘランに一週間ほど滞在する機会を得ました。
学生時代から世界各地の観光地などを訪れ、各国の文化の多様性については、十分承知しているつもりだったのですが、イランでは、自分の想像を超えて様々な点で驚かされることが多く、たくさんの出会いの中でも大変貴重な体験をしました。
今回はその中で、三点ほど書かせていただきます。
イラン旅行で気付いた日本との文化の違い3つ
- 社会的儀礼 – タアローフ
- 両親に対しても敬称を用いる
- できないこともできると言う – 謙虚さがない
1、社会的儀礼 – タアローフ
あるとき、タクシーに乗ったのですが、そのタクシーの運転手さんが、私が代金を渡そうとすると、手真似と片言の英語で、
「いや、あなたは遠い国から来られたお客さんなので、あなたからはお金はもらえない。」と断固としてタクシー代を受け取りません。
途方にくれているところに、丁度友達のイラン人が到着し、無事にお金を受け取ってもらえました。その後、イランでは「タアローフ」といい、このように当然のように代金を受け取るべき場面でも、社会的儀礼として、一応遠慮するという習慣があることを知りました。
京都のように古都だからでしょうか。これは商店などでも同じで、買ったものの代金を支払うのに、かなりの社交的なやり取りを交わさないと、なかなかお店から出てこられなかったりもしました!慣れてくるとこういうやり取りも楽しく感じられました!
2、両親に対しても敬称を用いる
日本では自分の両親のことを他人に話す場合、敬称を使いませんが、イランではたとえ自分の両親のことも、他人に対しては敬称を用いて話していて、なんだか不思議に郷愁を覚えました。
昔の日本みたいですよね。
日本ではもはや自分の両親に対して敬称を用いるような機会は皆無なので、新鮮に感じました。目上の人の権威が揺らがない感じですね。
両親だけではなく、小学校の恩師や目上に当たる親戚の人のことを話すときも、同様の敬意が払われていて、少し羨ましかったです!
3、できないこともできると言う – 謙虚さがない
旅行中にたくさんの人から、「英語は話せるか。」と聞かれたので、「少しは。」などと答えていると、質問をしてきた人が逆に「日本人なのに英語が出来ないのか。自分は英語はぺらぺらだ。」などと言ってきます。
じゃあ、と思って、英語で話しはじめると、英会話はまったく出来ない模様。どうやら、たとえ出来ないことであっても、人前でそれを認めるというようなことは面子に関わるようでした。「1」で書いた奥ゆかしさとこれがどこでどのように調和されているのか、とても不思議でした!
日本では、たとえ将棋の名手であっても、人から聞かれた場合には、「駒の指し方程度はなんとか。」などと謙譲して答えるような謙虚の美学があるのに対して、人前では決して自分の短所を認めない、出来ないことも出来るといいのける文化を育んだ歴史的な背景に思いを馳せました。
まとめ
いろいろ驚くことも多かったのですが、総じて楽しい旅行で、今でも時々思い出して笑いしてしまうこともあります!
やっぱり勉強で得る知識と、実際に出会いの中で得られる体験は全く違いますので、是非たくさんの日本人に積極的にグローバルな活動をしていただきたいと願います!
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