[公開]2016/06/12 [更新]2016/06/12

モハメドアリの死因と活動歴史、過去の対戦などまとめ!【動画あり】

偉大なるチャンピオン、モハメド・アリが死んだ。

1960年のローマオリンピックで金メダリストとなり、1964年にはWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得したモハメド・アリ。

彼は、その74年の人生のうち、6年間をアマチュアボクサーとして過ごし、間にライセンス停止期間はあったものの、足かけ21年に渡り最強のプロボクサーとして活躍した。

モハメドアリ

 

そんなアリがパーキンソン病と診断されたのは、1986年のことだった。余命10年と宣告されたにも関わらず、アリはそれから30年も生き続けた。

 

すべてのボクサー生活より長い期間、彼はパーキンソン病患者として生きた。私はそれに敬意を表したい。彼が一番長く戦ったのは、歴戦の勇士たるボクサーたちではなかったのだ。

 

パーキンソン病の症状 – パーキンソン病を知る

ボクサー、モハメド・アリ

私がボクシングを好きになったのは、もう40年以上も前のことだ。

  • 大場政夫
  • 輪島功一
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日本が誇るボクサーの世界戦があると、テレビにかじりつくようにして観ていた記憶がある。その頃は今と違って、たまに海外の試合が地上波で放送されることがあった。

 

そこに登場するのは必ずモハメド・アリだった。

 

ケン・ノートンとの2連戦


一番古い記憶は、1973年に行われた、ケン・ノートンとの2連戦である。1勝1敗の成績であったが、2試合とも判定決着で、盛り上がりには欠けた試合だった。

 

ジョージ・フォアマン戦

その翌年に行われたのが、「キンシャサの奇跡」と呼ばれた、ジョージ・フォアマン戦であった。
モハメド・アリを語る時に絶対に欠かせない試合ではあるし、今回の死去にあたってのニュースでも必ず取り上げられているタイトルマッチだ。

 

しかし、アリがフォアマンをノックアウトした第8ラウンドを除けば、あまりエキサイティングな試合ではなかった。フォアマンは終始攻め続けていたが、アリは蝶でも蜂でもなかった。

 

アリのボクサーとしての全盛期はやはり1960年代だったのだろう。ベトナム戦争への徴兵を拒否した1967年より前のことだったのかもしれない。

 

社会活動家としてのモハメド・アリ

アリは徴兵拒否の前から、ボクシングと別のリングにも上がっていた。そのリングの名前は「アフリカ系アメリカ人公民権運動」、恐ろしく強いその相手は「黒人差別」だった。

 

ソウルと黒人公民権運動

 

1964年に公民権法が制定され、法律上の差別はなくなったものの、白人が持つ差別意識が瞬時に消えることはなく、公民権運動は1970年代まで続いた。

 

そして、21世紀の今となっても、アメリカにおける人種差別や人種対立による事件は後を絶たない。モハメド・アリ亡きあとも、「アメリカの戦い」は続いていくのだろう。

 

モハメド・アリの悲痛と死因

最後にパーキンソン病のことにも触れておきたい。

1986年アトランタオリンピックで聖火台に火を灯したモハメドアリ

私がモハメド・アリを心の底から尊敬するようになったのは、1986年、アトランタオリンピックの開会式で、聖火台に火を灯した時だった。

 

私はその様子を病院の待合室にあった小さなブラウン管テレビで観た。前日の夜、父親が倒れ、一晩を病院で過ごさなければならなかったからだ。

 

誰もモハメド・アリが登場するとは思っていなかった。有名スポーツ選手が最後の聖火ランナーとして点火することは予想されていたが、まさか世界一有名なスポーツ選手が出てくるとは誰も想像できなかった。

 

トーチを持つアリの手は小刻みに震えていた。かつて何人ものヘビー級ボクサーを倒してきた手はずっと震えていた。アリの顔から表情が奪われていた。

 

世界チャンピオンとして相手を威圧するような表情も、黒人差別に怒りを表すような表情もなかった。聖火が燃え上がった瞬間、私は泣いた。モハメド・アリの戦いは続いていたのだ。

 

新たなリングの上、再びチャンピオンとなることを目指して戦っていたのだ。

 

2016年6月3日、敗血症ショックのため、モハメド・アリはこの世界からいなくなった。しかし、彼の戦いぶりや言動は多くの人に希望の種を撒いた。

 

その種はいつか何色でもない色の花を咲かすだろう。力強く誇らしげに咲くだろう。